のんきな大航海☆逆風帆走すくらっぷぶっく
KOEI 大航海時代Online、NOTOS イングランド所属 ☆☆☆「のんきなわいど」の、のんきすぎるLOGBOOK です。 



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遠く・・・はるかなる「観音崎」 | 大航海時代online徒然の日記(その他)
突然だが、「観音崎」という岬をご存知だろうか。

 東京湾の入り口の神奈川県側に位置し、東京港や横浜港、千葉港などへ、入港する船舶をコントロールする海上交通 安全センターや大型の灯台があり、海の交通の要衝である。

 また、周囲は、東京近郊でも数少なくなった自然海岸や、漁港、緑地帯や公園、ホテルなどもあり、東京から手軽にいける市民の憩いの場所となっている地域だ。

 実は、あまり知られてはいないが、先の戦争中までは東京湾を守る 要塞地帯であり、近づくことができなかった場所でもあった。
 
 今も、要塞跡の蔦の絡まる古いレンガ造りの砲台跡が残る。
 
 また、さらにあまり知られていないが、名も無きたくさんの、名もなき船員の魂をなぐさめる場所でもあるのだ。

 観音崎には・・・「戦没船員の碑」というものがあるのをご存知だろうか。

 ・・・「戦艦 大和」は、最近映画にもなり、その名を知らない人は、いないだろう。

 この巨大戦艦であっても、映画にもあった通り、 昭和20年4月7日、米軍の攻撃を受けている沖縄に向かった「戦艦 大和」は、米艦載機約400機による波状攻撃により、爆弾6発、魚雷10本以上の被害
を受け、大傾斜後、転覆。

 約2500名の乗組員と共に、九州のはるか南の紺碧の海にその巨大な船体を、大爆発させながら、遠く沖縄へたどり着く目的を果たすことなく、波間に没したのである。

 しかし、さらに、耳を覆いたくなるような悲惨な被害を 被り、無念に遠い母国を思いながら、波間に消えていった、無数の、たくさんの名も無き船乗り達がいるのをご存知
だろうか。

 ・・・今も、その正確な総数は、わかっていない。

 ただ、今は、静かに蒼い海に眠る、その、無名の勇敢な船乗り達の数は、6万人とも7万人とも言われている。
 その死者の割合は、軍人よりもはるかに高かったのである。

 いたいけな年少の船員も多かった。

 若き命を散らした船乗りの中には、わずか14歳の少年も 1000人近く、犠牲になっているのである。
 
 また、輸送されていた軍人、疎開のためなどで、乗船していた女性や、年端もいかない幼子、乳児や、子供達もたくさんいたと言われる多種多様な無数の乗船者達も含めると、その犠牲者は、軽く30万人を超えるとも言われている。

 長崎、広島の原爆の犠牲者数は、これまた、正確には、わかっていないが、両都市合計で、40万近いと言われ、東京大空襲で約10万人と言われている。

 命というものは、数で比較するものでは、もちろん ないのだが、その忘れさられた被害の大きさが、わかってもらえると思う。

 そして、約2500名の軍人が、運命を共にした、それでも、堅牢な日本軍艦造船史上最強の戦闘用の軍艦である、映画にも刻まれた「戦艦 大和」の艦名を知らない人は、ほとんどいないだろう。
 
 しかし、少なくとも30万人ともいう、絶望と苦闘の末、海に消えていった人達と、無数の勇敢な船達がいる事を知っている人は、 繁栄した戦後、日本の中で、これまた、ほとんどいない。

 それは、本来は、平和な海で静かに、戦うために造られた軍艦、戦うために乗り組む軍人と異なり、本来は、異国の豊かな風物、乗客と物資を運び、今日も変わらず、繁栄した日本を支えているタンカーや貨物船や、客船、漁船などの商船達と、その乗組員で、民間人である船員達と、その積載された同乗者達である。

 先の大戦中、有無を言わさず、民間人である船員達と共に、戦う装備も装甲もない民間の商船達も、そして、小さな漁船さえも、むしり取るように、次々と軍に徴用されていった。

 それも、使い捨てに等しい、耳を疑うような、恐ろしいほどの無計画さ、無責任さの中で。
  
 そう、それは・・・虐殺とも・・・言っていいものだったと思う。
 
 ほとんど、装甲も、武装も、護衛もされないまま、まれに護衛は、あっても貧弱で、その存在は、全く軽視され、ほとんど一方的に、
 ある船は、爆撃機に、
 ある船は、潜水艦に、
 そして、ある船は機雷に触れ、
 
 時には、国際法で安全が保障されているはずの病人や、負傷者、医師や看護婦の乗った赤十字の描かれた、白い病院船さえも、攻撃を受け沈んでいった。

 幼い小学生などの学童を、多数乗せた学童疎開船も「お母あさん・・・」と泣き叫ぶ、悲しい幼い声を、海風に、か細く乗せながら、その姿を消していった。
 
 連合国は、日本の商船は元より、小さな漁船、木造船、機帆船さえも、徹底して、集中的に攻撃した。

 海上輸送が、日本の生命線であることを知っていたからだ。

 昭和16年12月に、500総トン以上の商船で輸送した物資量4,178,499kt・・・

 一方、敗戦を迎えた20年8月の輸送量318,797kt・・・
 実に、マイナス93%もの減少となった。
損耗率は、恐ろしいことに、9割を超えているのである。

 終戦を迎えた時、今は、横浜港に係留され、記念艦となっている「氷川丸」(それも、戦争中は、病院船として使用されたため、助かったと言われている)はじめ、3隻しか、太平洋を渡る能力のある大型商船は、残っていなかったと言われている。

そして、その「氷川丸」さえ、実は、同型の姉妹艦が二隻いて、三姉妹だったことも、知られていない。

 その優美な姿を横浜に残す「氷川丸」の哀れな姉妹「平安丸」「日枝丸」は今は、寂しく忘れられたまま、太平洋の暗い海底に静かに眠っている。

 夥しい犠牲の中で、消えていった、名も無き船乗り達や、大小の商船達には、「栄光の冠」もなく、その胸を飾る「勲章」も、「戦艦 大和」のような、最後の「美学」や「栄光」も、「映画」になることも、人々に記憶すら・・してもらえる事もなかった。

 その悲惨な歴史は、「戦艦 大和」や原爆や大空襲の事は、かすかに記憶されていても、こうも、誰もが平和の戦後の世代交代の中で、忘れ去ってしまうほど、日本人は、忘恩の民族だったのだろうか。
 
 そして・・・その結果、資源のなくなった日本の経済や産業は崩壊し、国民は飢餓状態に追い込まれ、敗戦へと向かっていった。
 
 ところが、開戦当初から、当の日本人は、
「戦艦 大和」をはじめとする、巨大な戦艦の建造や、艦隊攻撃だけを重視し、その補給や、経済を支える一見、地味であるが、大切な商船の保護には、ほとんど関心を示さなかった。
 現在の日本人が、商船のソマリアやマラッカ海峡での海賊襲撃に無関心なのと一緒である。海洋、貿易、無資源、食糧自給率もおぼつかない、商船なしでは繁栄できない島国であるのは、現在も変わらないのに。

 こうして無数の名もなき船員達も船も、戦う何物も与えられておらず、ただ、じっと、死の来るのを待つばかりであった。

 戦いながら死ぬのならまだしも、戦うすべもなく、敵のなすがままに、死なねばならないことは、軍人以上の精神力を必要としたはずである。

 その失われた船の数は、今でも正確にはわからないが、わかっているだけでも、7千隻を軽く越えると言われている。

「安らかにねむれわが友よ 波静かなれとこしえに」と・・。

 観音崎の、遠く太平洋を見下ろす、訪れる人も少ない場所にある、その碑石にはそう書かれている。

 東京湾の入り口にあたる、その岬の沖、世界有数の大混雑海路、「浦賀水道航路」は、今も、客船、貨物船やタンカーがひっきりなしに通っていく。

 商船が、現在も、今のこの時も、平和で繁栄した日本を支える動脈であることが、ここに来るとよくわかる。

 あわせて、名も無き、今は、豊かさと平和の中で、忘れられた無数の魂達が、帰ることを切望していた望郷の地でもあるのだ。

 そんな時代から、はるかに遠く・・時がたった豊かな戦後に生まれた
・・のんきにとっても・・・・

 「観音崎」は、特別の思い入れが、ある場所なのだ。
 
 岬から見える東京湾口は、深夜にもかかわらず、まるで宝石箱を投げ出したかのように、無数の灯火が輝き、そこに対岸の、無数の人々の生活があることを教えてくれた。

 また、深夜にもかかわらず、緑と赤の信号灯をつけた 大型船が、浦賀水道航路の指定航路に従い、一列となってひっきりなしに往来していく。

 観音崎灯台の白い光が、航路に向け、鋭い光を投げかけ、点滅していた。

 カーステレオからは、ユーミンの、「よそゆき顔で」が流れる。

 「・・・砂埃の舞うこんな日だから、観音崎の歩道橋に立つ。
  ドアのへこんだ白いセリカが、下をくぐって行かないか・・・」

 海風が心地よく、まだ希望と、その先の人生の道は、どこまでも続いていると信じていた。元気で、若かった。

 何もかも、前途が開かれ、意気洋々と、輝いている気がした。

 東京湾の遠くなったその日の夜景の美しさは、今でも忘れられない。

 そして、いつしか、時は流れ、来週にも離婚することになる妻と、その一家、そして、病床にあった妻の父を、その年の初夏、そこに・・・連れて行く事になった。

 そのころ、義理の父は、癌に侵され、既に、病床に寝たきりであった。

 元妻も必死に看護を続けていた。のんきも、病気であった中だったから、彼女も疲れ果てていた。

 元義理の父は、まだ60代前半であるのに、余命が尽きようとしていた。

 海に近い町で生まれた元義理の父が言った最後の希望は、自然の海をみたいということだった。 
 
 体力的に遠出はできないし、寝台自動車で、振動なく、慎重に運ばなければならない。

 つまり、高速道路があり、早く都心から、着ける場所でなければならなかった。

 医師や看護婦からは、往復の間に、万一の事もありうる事を覚悟しておいてくれと言われた。

 地理や道路のよくわからない元妻の一家は、私に相談してきた。

「観音崎がいいでしょう。」と私は答えた。
都心に近く、高速道路もあり、小さいながら自然海岸の砂浜があるのを知っていたからだ。

 そして、看護婦同行の上、観音崎に、寝たままの義理の父を、寝台自動車に乗せて、連れて行った。
 
 その日は、天気もよく、風もなく、青い海は静かで、波もほとんどなかった。

 のんきの知っていた観音崎近くの、小さな砂浜に、ストレッチャーごと、寝台自動車から、義理の父を下ろし、浪うち際近くまで、運んだ。

 死期の迫る義理の父は、久しぶりの太陽と青い海に目を細めながら、しばらく静かに海を眺めていた。
 
 沖を・・・大きなコンテナ船が、陽炎に揺らぎながら通り過ぎていく。

 その日、空は・・どこまでも青く、海はどこまでも蒼かった。何もかもが幻のように・・・。

 義理の父の点滴の刺さった、痩せてしまった手に、そっと、貝がらを握らせた。
  
 心なしか泣いている様にも見えた。

 そして、一家で、のんきのデジタルカメラで、一家で、記念写真を撮った。
 
 それが、生前の最後の写真となった。

 元義理の父が亡くなったのは、その一週間後だった。
そして、その写真は、御棺に入れられた。

 元妻の離婚の意思が決まったのは、葬儀が終わって、まもなくのことだった。

 それは、最後の元妻側の一族との外出ともなった。

 のんきにとっては、若い時の思い出と、その後の変化の悲しみが、つまった岬なのである。

 「観音崎」・・今は、日本の西にいるのんきにとっても、元妻にとっても、繁栄に生きる日本人にとっても、忘れられない、忘れてはいけない岬だと思う。

 その岬の名の、観音様のように、静かに、今日も、 行きかう船を、見守っているであろう、あの懐かしくも美しい岬の白亜の灯台の灯は、今夜も、優しく穏やかな平和な海を、柔らかく照らしているのだろうか・・・。
観音崎その2
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【2009/02/27 12:40】   トラックバック(0) | コメント(0) | この記事のURL | Admin↑ | Top↑






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